本書、『抽象的人間』の中で、筆者は現実について語っている。
現実というものが、長い間わからなかった。だから自分で勝手に定義することにした。『現実とは、その人の行動に影響を与えるもの』である。それ以外にない。私が百人の前で演説しているとき、百人にはそれぞれの養老孟司がうつっている。見る角度は、全員異なっているからだ。それなら、テレビカメラはどの角度からとらえた時に『客観的』な映像となるのか?
こんなことを言うと、すぐに屁理屈だといわれる。そんなことは些細な違いに過ぎないじゃないか、と。それは果たして些細なことなのだろうか?それを些細なこととみなすことで、現代社会は進歩してきた。
一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。それでなきゃあ、個人なんかいらない。それを些細なことと決めつけるから若者が人生の意味を見つけられないのである。これと言ってさしたる才能もない私が生きてる意味なんかあるのか・・だから今度は個性、個性と逆にいう。…
私はこの文章を読んだときに、大分救われた。まさに、私なんかが生きている意味はあるのか…と思うことが多かったからだ。
一人一人の世界が感覚的に異なるからこそ、個人や個性の意味が生じる。それでなきゃあ、個人なんかいらない。
ここで考える。感覚的に異なる世界を簡単に言葉にすることはできないだろうな、と。また、それは言葉にできないことなのかもしれない。
私たちの生活は言葉であふれ、情報はすぐに「共有」できる。facebookしかり、twitterしかり、アマゾンのレビューもそうだ。
でも、言葉にできないものがある、ということが個人の生きる意味の大きな部分を占めるんじゃないかと気づかせてくれる。「情報」「共有」の時代に生きる私たちは、時々このことを思い出したほうがいいなと思うのである。
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